プロヴァンス史 原史時代(Protohistoire)
紀元前10世紀〜紀元前7世紀ごろまで
(原史時代:考古学上の時代区分のひとつで、文献的資料が断片的に存在する時代を指します。)
| 年表(Chronologie) | |
| 前9世紀〜前6世紀ごろ: | ケルト人がプロヴァンスに住む |
紀元前10世紀から紀元前7世紀の間にプロヴァンスで起こったことを理解するために、我々は2つのタイプの源から考える事ができます。一つは、その歴史を書いた古代の作家たちがいるということ。もう一つは、我々がこの時代から見つけたことによって、導くことができる一連の結論があるということです。。そして、この結果は常に一致するとは限りません。 |
| 原始的神話 | |
ラテン中心世界の価値観や、自分たちが書いた文明の素晴らしさを証明する気持ちを持った古代の作家たちは、この時代のプロヴァンス地方を単に異民族がたくさんいる場所という認識しかもっていませんでした。歴史学者プリネ(Pline)は長髪のリグリア人について、まるで、彼らの身なりの特徴だけで、彼らの社会、生活様式、さらには文明さえも特徴付けるのに十分であるかのように記述しています。その民族の不親切さや、彼らの粗野な部分を説明するために、ある作家たちは、それを客観的な地理のデータにあてはめてみようと試みたようです。歴史学者Tite-Liveは、この時代のプロヴァンスについて「リグリアというのは、荒々しく山に囲まれた地方であり、占領するのに苦労する場所であった。道は険しく、幅が狭く、奇襲される危険性で満ちた通路であった。彼らは、敏捷で、身が軽く、唐突に現れるので、ローマ人たちは一瞬の気を緩める暇もなかった。この地方では、リグリア人がいつ、どこから現れるかに常におびえていなければならないし、自分が安全だと思えるところがどこにもないという感覚に陥る。この地では、無限の疲れや危険に身をさらしつづけねばならない要塞のようなものであった。最後に、それは兵士に耐久生活を強いさせ、彼らに惨めな成果しかもたらさない土地であった。」と語っています。 |
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| 1787年に書かれた"プロヴァンス紀行(Voyage en Provnece)"という本の中では「我々がより確かだろうと思い、言うことができることは、この地方に住む住民は町(定住場所)も絵画(文化)も警察(治安体制)も持っていなくて、彼らは武力と需要以外の規則を知らない。我々がリグリア人と呼ぶ海岸に住んでいた人々は、漁業や海賊行為で生活していた。」という記載がされています。 | |
| 同様の観点から見て、アルル近くの"妖精の洞窟(Grotte
des Fees)"で発見された巨石墓は、おそらく塹壕をめぐらし要塞化した野営地の一部分だったと思われていまが、派手派手しい巨石墓は授与されたものに違いないとされています。プロスペール・メリメ(Prosper
Merimee)によると、この時代は「まだまだ原始的な民族であり、まだまだ野蛮な時代である」とされています。 実のところ、原住民が力強く、彼らが立ち向かった生活に非常に困難な状況が彼らの力をより発展させたということを、もし確信できるならば、彼らがもっぱら野蛮であったと言うことはできないのですが、それを証明することができません。 だれが原始時代(先史時代と歴史時代の間)つまり、紀元前10世紀〜7世紀の間にプロヴァンスに住んでいたのでしょうか?一度に複数の民族が交じりあい、違う起源を持つ二つの民族が並列して住んでいたのです。つまりリグリア人とケルト人です。 (写真:ドラギニャン・妖精の石) |
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| リグリア人(Les Ligures) | |
| この時代にプロヴァンスに住み着いている部族の中で、発見できた部族は、おそらくリグリア人以外にはいないとされています。その出現はローマ人が考え出したとされています。アルプスの両方で、山と海の間にすむ部族を特徴づけするために名づけたようです。この部族は、移民や、中央ヨーロッパや、アジアへの出発点にするために来たのではなく、単に昔からここに住んでいた新石器時代の小部族の子孫だと考えられています。ある作家は次のように書いています。「リグリア人は部族として、又、人種として現れたのではない。彼らは再び姿をみせたのだ。政治そして社会国家、新石器時代の文明、長い進化の結果、起源の民族要素や、自然の多様性要素が徐々に混じりあって再び現れたのだ」。この原住民は、結局のところ、何世紀も前からこの地に住んでいたのです。 彼らの身体的特徴は、彼らが適応した自然環境に由来しています。研究者はそれを、非常に敏捷で("彼らは、ヤギのように山々をよじ登る"と地理学者ポシドニオスが断言しています)すばやく、戦闘好きなものとして描写しています。彼らは、今やもう知る事のできない言語を話していたようです。プロヴァンス地名学において、我々がギリシャ、ラテン、古代ローマに起源をもつものによって説明できないすべての言葉は、リグリアの起源によるものであることが多いのです。地名の語幹や接尾辞の大部分は、実際にリグリア人の言語から継承したようです。政治的分布では、約50の部族がいたようですが、彼らは領土を分け合っていたようです。とりわけアルプスの山間では、ある部族が、別の部族との境界を越えたりはしなかったようです。他の地域、特にプロヴァンスの低地では、連邦として統合されたようです。これらの部族の名は、帝国の拡大を語ったローマの歴史家によって名付けられましたが、そうとはいえ、我々は常にそれらを確信を持って位置づけることができないのです。 | |
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48の小部族の名は、ラ・チュルビー(La
Turbie)の戦勝記念碑に刻まれましたが、時間が経つにつれて、その石版の文字は消えていってしまいました。有名な3つの連邦の名前があります。ヴァントゥー山(Ventoux)の辺りに位置し、ローヌ川の谷間周辺にあったVoconces連邦。後にコンタ・ヴネサン(Comtat
Venaissin)となった場所に位置していたCavares連邦。そして最も重要で、最も構造化され、もっとも力の強かったのが、Salyen連邦であり、この連邦は17の小部族を再編成し、ローヌ川からヴァール川までのプロヴァンス中部全域に広がっていました。各々の部族が力と連邦を組織化させ、ただ暴力のためだけではない力の構造計画を立てていたようです。 写真の像は、神人同形像と呼ばれ、石自体が顔であり、身体であり、さらに右下に太陽が刻まれ光を放っています。これはアヴィニョンのドン岩壁で発見されたもので、前3000年ごろだとされていますが、この頃から原始民族がこの地に住んでいた証拠となっています。このように、この時代の人々は太陽をあやかっており、死んだ人が神(=太陽)となって民族を守護してくれるという神人同体の信仰があったものと推測できます。 (写真:アヴィニョン・カルヴェ美術館・神人同人像) |
| リグリア人の精神的生活 | ||
この部族の最も興味深い点は、彼らの宗教や彼らが発達させた芸術に愛着を持っていた点です。彼らの信仰対象である自然から、今や何も知る事ができないですが、彼らは巧みに自然に同化し、自然は彼らの日常生活にとって無視できない影響を持っていたと考えられています。ブゴ(Bego)山の岩壁に描かれた不可解な絵画や、タンド(Tende)にあるメルヴェイユ美術館で見ることができるメルヴェイユ渓谷の驚くべき彫刻(なんと40000点ほども存在しています)を見ると、これらはリグリア人が残したメッセージだと考えたくなります。リグリア人が残したものは、これが発見されるまでは何もわかりませんでした。 |
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| 大部分の巨石墓や、プロヴァンスの中にある並木道、他の巨石建築物は彼らの影響だとされています。そして、すばらしい地形や景色を新しく作り出して戻ってきたのも彼らなのです。Salyen連邦の首都であったオントルモン(Entremont・エクサンプロヴァンスから15kmくらい離れたArc渓谷のあたり)の防壁居住地(L'oppidum)と聖地であったロックペルテューズ(Roquepertuse)の防壁居住地などがそれにあたります。この2つに加えて、特に、アルピーユ山脈(les
Alpilles)にあるムリエス(Mouries)に他の居住地が存在していました。しかし、その後の文明や略奪の繰り返しにより、おそらく覆い尽くされたと考えられています。もし、それらが発見されれば、マルセイユのヴィエイユ・シャリテ博物館(Musee
de Vieille Charite・考古学博物館がある) での研究発表にとってすばらしい要素になることでしょう。 オントルモン(Entremont)や、特にロックペルテューズ(Roquepertuse)で、すばらしい彫刻、彫像、建造物が発見されました。すばらしいといっても、ただ発見された芸術作品の美しさという理由だけではなく、その彫刻が表す明白な事実に基づく観念的な理由からです。Salyen連邦は蓋骨(がいこつ)への崇拝、後々には、頭蓋骨への崇拝習慣があったようにです。おそらく、この部族は聖地に彼らのヒーローや、首長の神聖な遺骨を埋葬したのだろうと考えられています。リグリア人にとっての、生命の息吹、精神、魂というものは、彼らの頭の中に含まれていたようです。信じられないほど整列して積重ねられた顔の彫像も同じくロックペルテューズで発見されました。 |
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この彫像技術や、信仰体制において、動物は無視できない働きを担っていました。精神虚飾的な鳥や馬、また多種の伝説動物(アヴィニョンのMusee
Lapidaire(ラピデール美術館)でみることができます)ライオンのような動物、熊、ドラゴンなども発見されました。これらのうちのどれかが、タラスクとして長年この地方に残ったとされています。 リグリア人を語るにおいて、25世紀もの間存続する建物の斬新な建築技術ノウハウを付け加えなければなりません。乾いた石でつくる建築技術(ボリーの家等)は、特にリュベロン地方などのプロヴァンスの田舎で見つけることができるでしょう。 (写真:アヴィニョン・ラピデール博物館・タラスクのモデルとなった怪物像) |
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| ケルト人(Les Celtes) | |
| この原住民に混じり、この地方では2つの主な勢力の一つとなった民族がいます。ヨーロッパの端からやってきたと思われるこの民族は、ケルト人です。ケルト人の移動は、大陸の中心から出発しました。この移動はとてもよく知られていて、彼らは持続的に痕跡をとどめながら南に移住したと証明されました。例えば、ブルターニュには彼らの痕跡が残っています。このケルト人の移住は、実際のところ、戦争による征服、とりわけこの民族がもっていた鉄器での支配によるものだったようです。これが古代ローマ政治の前兆となります。彼らは最初、剣を扱っていて、その後、犂を使うようになりました。ケルト人の第一の発展は比較的長期間で漠然とした期間で生じました。大体、紀元前900年頃から紀元前500年頃と推定されています。2回目の発展は、より正確に推定されていて、紀元前6世紀から紀元前5世紀の間だとされています。 北ヨーロッパから、ローヌの山間を通って押しかけてきたケルト人は、リグリア人のしっかりした人口増加を維持していたアルプスの谷には干渉しなかったようです。それは2つの民族の融合や混合を意味します。この土着民族を規定するためにリグリアと呼ぶことが許されるのならば、我々は歴史上最初のプロヴァンス民族として"ケルトーリグリア"人を規定することができるでしょう。 |
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| これらのプロヴァンス小部族は境に近い地方と商業貿易をしていました。ケルト人が通ったローヌ川の山間、デュランス川の山間などは、ガリアの北側や、そこに含まれていないイタリアの部分とともに、どれもが商業ルートでした。後の世紀ですが、ローマ人は彼らの自慢であり、帝国領土の特徴でもある大きな交通路を整備する事になります。それらは確かにすばらしいものですが、もとからあった道、つまりリグリア人たちが使った道を改良したに過ぎません。 ローマ人は、彼らが領土における行政の組織化にとりかかる時にも、同じく彼らの実用主義に対し忠実に、ケルトーリグリア人が作った組織を再び採用しました。彼らの都市、彼らの地方、それらの中で現在私たちの町やわたしたちの村になったいるものもありますが、それらは様々な商業同盟や政治同盟で結ばれていて、地方を形成していました。彼らの跡地が丘や小山を形成し、そこには危機の場合に城壁がある避難所を見つけることができました。 (写真:リュベロン・ボリーの家) |
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| フェニキア人(Pheniciens)、カルタゴ人(Carthaginois)、エトルリア人(Etrusques) | |
| 境を接する地方との商業関係において、政治的地図に従い、きちんと組織化し繁栄したとされるケルトーリグリア人は、世紀を通して、地中海のいくつもの海岸にたどり着いた船乗りたちにも気付いていたに違いありません。 いたるところに来たフェニキア人(小アジアから来た人々)は大西洋において、長期的には、どこにも居を定めませんでしたが、彼らは確かにプロヴァンスを通り過ぎたのです。それを証明できるものは何もありません。証明できるものといえば、フェニキア人はプロヴァンスに立ち寄ったということくらいです。カルタゴ人やシラクサ(シチリア島東岸に位置する都市)人もここを通ったのだとされています。しかし、船乗りたちの存在を証明できるものは何もありません。 |
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長い間、根強く残った伝説などでも証明する事ができません。たとえばエトルリア人によるプロヴァンス植民地の伝説などがそれにあたります。この大きな文明化が、その地域的影響として、存在したと証明されました。また、アンフォラや花瓶の破片、特に黒色陶芸で簡単に識別できる紀元前7−6世紀のエトルリア人の特徴などによって商業的関係は存在したと証明されました。 ケルトーリグリア人への貿易は、特に塩に代表される貿易であったのですが、多様な貿易はそれらがプロヴァンスにおいていくつも発見されていることから頻繁であったということを明らかにします。またガリアのいたるところでも、より素晴らしいプロヴァンスの彩色ガラス細工のオブジェが見つかっています。商業的船乗りがそれらを地中海の停泊地で拾い集めたのでしょう。 (写真:アヴィニョン・ラピデール博物館・エトルリアの陶器) |
| ロードス島人(Les Rhodiens) | |
| ギリシャ商人の到着は、紀元前7世紀からすぐのことです。ギリシャ商人の到着はより大きな確信をもって広く知られています。初のギリシャ人船乗りはギリシャのロードス島から来ました。ロードス島人の遺跡では陶器や、青銅器が数々発見されていますが、それらは、沿岸地帯(マルセイユ近く、マルティーグ(Martigues)沿岸やトゥーロン沿岸)で発見されただけではありません。より大きいものは、内陸部で発見されています。何かの破片や、陶器の多様性は、ギリシャ人とプロヴァンス人の関係がマルセイユの創立以前から、絶え間なく永続的で定期的なものだったと考えさせます。しかし、この関係を決定づけてしまうことは、マルセイユ創設は許可されたものであると説明しているようなもので、昔話を台無しにしてしまいます。 (写真:ニース・考古学博物館・アンフォラ) |
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